雁月

がんづきとかゲームとか映画とか

ある前提が分かれば難しくない。映画「もう終わりにしよう。」 ぐだぐだレビュー

もう終わりにしよう

そう考え始めたら─

頭から離れず私を支配する

もう自分ではどうしようもない

もう終わりにしよう。

脚本・監督: チャーリー・カウフマン
原作: イアン・リー


配信されてすぐにタイトルで釣られてなんとなく鑑賞した映画である。
しかしなんとなく見るにはカロリーが高く、鑑賞後いくつかの考察を漁ってやっと意味がわかって仄暗い気持ちになった。

そして改めて見直したので、感想と考察を残しておく。

https://www.netflix.com/jp/title/80211559www.netflix.com


この作品はわけがわからないことの連続で、気づいたら終わっていたというのが初見での正直な感想だ。
恋人ジェイクの実家の写真のなかに何故か自分の小さい頃の写真があったり、なぜかミュージカルが始まったり、脈絡もなく無関係そうな用務員のカットが幾度となく挿入される。置いてけぼりである。

しかし、ある前提を知ったうえで観るとストンと理解できる作品である。
そういう点で言えば、本作は考察が難しい部類の作品ではない。


あらすじは

恋人との将来に悩みつつ、雪の日に辺ぴな農場に住む彼の両親を訪れた女性。だが、不思議な感覚に見舞われて、何が現実なのかわからなくなっていく。

とあるように女性視点でスタートするのだが、そもそもその視点が全体を把握する上では間違っている、ということである。
一種のミスリードである。

主人公は用務員(=ジェイク)であり、画面に映っているものはすべて彼の頭の中で描いている妄想である


先程述べた前提とは、「主人公は用務員(=ジェイク)であり、画面に映っているものはすべて彼の頭の中で描いている妄想である」ということ。

この視点を持てば不可解なカットの意味もわかるようになる。


創作活動をしている人なら理解しやすいと思うが、恋人の女性は、いわゆるジェイクにとっての「ぼくがかんがえたさいきょうのこいびと」である。

彼女の名前や職業がコロコロ変わるのも、ジェイクにとっての理想の彼女の設定を練りながら話を考えているから。
用務員が休憩中に映画を観た後、恋人の設定をその映画の設定から拝借していたのなんて創作あるあるだなあと思った。



創作者の生んだキャラクターは必ず創作者の内面が反映される。鏡に近い。

恋人の女性。アイスクリーム屋の店員。……蛆の湧いた豚も。
ただし、恋人の女性に関してはちょっと特殊で、鏡の役割を持ちつつもジェイクにとっての理想の恋人というニュアンスも含んでいる。
ジェイクの家にあった幼少ジェイクの写真が最初は彼女だったのも、ジェイク = 彼女 であることのヒントになっている。

気になったシーンの解釈

例えば、彼女が自分の電話番号からの着信を拒み続けたのも、「もう終わりにしよう」という決断をした一方で、認識したくないと思っていたからだ。
こういったジェイクの内面での自問自答(のようなもの)の暗喩が本作では大量にある。というか、すべてがそうである、というのが正しいか。

こういったものをいくつかピックアップして考察を書いていこうと思う。

アイスクリーム屋でのやり取り

実家でいくつかの違和感を覚えてから、さらにその違和感を増幅させるようなアイスクリーム屋のシーン。

女性は、湿疹のある少女に向かって「あなたのこと見たことあるような…」と言う。
そしてその後すぐにジェイクの腕にも同じように湿疹があることが明らかになる。湿疹のある少女 = ジェイクの暗喩である。分かりやすい。
湿疹のある少女は別れ際、女性に「悪いことが起きる気がする」と伝える。

おそらくジェイク自身はこれから自分が行おうとしていることの重さを理解していて、この時点ではまだ心のどこかでためらいがあったことを、湿疹のある少女が発言する形で示しているのだろう。

学校でのミュージカルについて

学校内で突然始まるミュージカルで、華やかに踊る二人はジェイクが理想とする自分(と恋人)の姿である。
そしてミュージカルは、理想の自分を現実の自分が殺害し、理想の恋人をどこかへ連れ去ることで幕が閉じる。

このミュージカルは、オクラホマ!という映画がオマージュ元になっているらしい。 こちらは大まかなあらすじを確認しただけで未鑑賞なので、オクラホマと比較しながらの考察は行わず、読み取れたことだけで考察しようと思う。

理想の恋人をどこかへ連れ去る、これもまた「もう終わりにしよう」ということではないか?
たった一度バーで出会っただけの女性をもう自分の妄想のために利用することはやめ、開放するために半ば強引に連れ去ったのではないか?
頭の中でなら何をしても自由なのに、彼はそのことに罪悪感を感じている。そしてこのような行動をとったのではないか、と考えた。


最後のシーンについて

本作は常に映画の中に息苦しさがある。4:3のアスペクト比率も閉塞感を生み出すのを手伝っている。

もう終わりにしよう。車の中。周りになにもない一本道。ぎこちない会話。閉塞感。
恋人の両親の家。気まずい夕餉。車を飲み込まんばかりの雪。そろそろ帰らないと。閉塞感。
豪雪の中ぽつんとあるアイスクリーム屋。湿疹のある少女。嘲笑。見ないふり。バツの悪さ。閉塞感。



ただし、一番最後のシーンは一変して、気持ちいい快晴が広がり開放感がある。
そしてそのままエンディングに突入するが、これくらいあっさりした終わり方は好きだ。

このシーンは「妄想を終わりにして新しい人生を歩き始めた」か「彼自身をもう終わりにした」か解釈が分かれる表現になっているが、私は後者だと思っている。
「たとえその選択が他の人からすれば間違っているものだとしても、少なくとも彼にとっては正解だったし彼も納得している」と思える点が私は好きである。後ろ向きな明るさかもしれないが。


彼が望んでいたもの

妄想は理想と同義である。
終盤に差し掛かるにつれ、彼の理想、望んだものが浮かび上がってくる。


彼にとっての死の象徴である「蛆の湧いた豚」に連れられ、最期の舞台へ赴くシーン。
眩しい舞台の上に立ち、人々から称賛の声を浴びる妄想の中のジェイク。若かりし頃の彼が夢見た光景ということだろうか。
名誉、人望を得た彼がそのステージの上で歌ったのは、だった。


つまり、彼が一番望んでいたことは、名誉、人望よりも「誰かと愛し合いされる」ということではないだろうか。そして叶うことはなかった。


ジェイクを思うと胸が苦しくなる。
彼はいつも寂しそうで、聡明ゆえに諦観をもち、だけどその目は澄んでいた。

学校で女性と用務員が出会い、二人で微笑みを交わしたときのジェイクのあの今にも泣き出しそうな顔が忘れられない。悲しい覚悟を秘めた目である。


あとがき(小説版についても少し)

こういう深層心理や心象を暗喩で表現した作品は大好物なのだが、今作は自分に重なる部分があって、少し辛いところがあった。

ジェイクは大学教授になれるほどの聡明さを持っていたが人間関係がうまく行かず、その結果教授を辞めて誰ともコミュニケーションを取らなくて済む学校の用務員という職に行き着いた人物である。
この映画は共感性が高いのは、ジェイクがいわゆる特別な人間でないからだと思う。
人間関係に悩む人や人間関係がうまく行かず挫折した過去を持つ人は少なくないはず。そういう人はジェイクに共感することが多いのではないかと思う。

誰だって一度くらいは理想の自分を思い描くことがあるだろう?


原作小説も読破したのでこちらの感想も少し。
映画版は気まずい会話が多く、居心地の悪い思いばかりで退屈だと感じることが多々あったが、小説は300ページいかないボリュームということもあり、コンパクトにまとまっていてとても読みやすかった。終盤の学校パートからの怒涛の展開につい引き込まれた。

ジェイクの内面が詳細に語られているので、映画版からさらに詳しく知りたいと思った方にオススメである。

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本作は、小説版の核心をうまく取り込み、映画として成立するようにアレンジを加えているのが見事だった。